仕事の関係で福島県郡山市を訪ねた時のことです。市街地に素晴らしいサクラの大木が並ぶ公園に気がつきました。開成山公園です。平成27年3月末の段階ではサクラのつぼみは未だ膨らんでいませんでした。開成山公園は1972年(昭和47年)3月31日に開設した総面積約30.3ヘクタールの都市公園です。園内には開成山総合運動場、隣接地には郡山総合体育館があり、福島県内では福島市のあづま総合運動公園と並ぶスポーツの拠点であり、福島県を代表する桜の名所でもあります。
 この公園のサクラがあまりに立派だったので、少し調べてみましたので紹介します。

 このあたりは、昔、大槻原(おおつきはら)と呼ばれ、江戸時代には二本松藩の狩場として利用されていました。私の姓と同じだったのに少し驚きました。
 明治初期、地元の中條政恒らがこの辺りの開墾を意図し、地元の富商に呼びかけ、「開成社」を組織しました。
 明治9年の明治天皇の東北巡幸に先んじて下検分に訪れた大久保利通に、中條政恒が福島県と開成社による大槻原開拓事業の成功と国営安積開拓の必要性を力説しました。その熱意を受け、明治政府は、高校の日本史の教科書にも載るぐらい有名な「安積開拓」と猪苗代湖から水を引く「安積疏水」事業に乗り出しました。
 この付近には、昔から上ノ池と下ノ池というため池がありましたが、開拓事業では灌がい用の池としてこれらの池を改修し、五十鈴湖と開成沼がつくられました。
 古いサクラの木は、1873年(明治6年)、開拓を始めるにあたり「開成社」の人々によって、ため池の堤防などに植えられたものだと伝えられています。
 郡山市のホームページによると、当時、山桜2,856本、ソメイヨシノ・八重桜1,036本など4千本近いサクラの木が植えられました。
 サクラの植栽記録としては、開成社百年史(以下、百年史)によると、開成社は明治6年の結社社則に花木苗木購入の金額を具体的に掲げ、明治8年11月14日、社員集会し開墾地周辺に桜苗木の植栽を決定しています。また、「池の周辺には数万本の桜苗木が植えられ、これが生育して花開き、郡山の名勝となった」ともあります。
 さらに百年史によると、遥拝所規則の第五条には「春秋参拝日毎に梅桜、桃、梨等の花木一村二木づつ献納開成山に植付可申こと」とあり、開成社は果物の成る木ではなく、「花木」の植栽に力を入れたことが伺えます。
 この桜にはこんなエピソードも紹介されています。開成社長であった阿部茂兵衛が自らの手で桜の苗を植えている姿を見た人が「あなたは、この桜の花を見られますか。」と尋ねました。茂兵衛は「桜は孫子の時代のもの。必ず町の名所として賑わいを見せる。」と平然と答えたといいます。
 この地の桜の多くは、その後も順調に育ったようで、昭和9年には国から名勝天然記念物の指定を受けています。しかし、昭和35年、運動公園の整備(開成沼の埋め立てなど)に伴って指定が解除されましたが、今でも公園の東西2か所に「名勝及天然紀念物開成山 櫻」碑が残っています。
 これらの記録からすると、公園内の古いソメイヨシノの樹齢は、長いもので約140年を数えることとなります。
 開成山公園の説明によると、現在、公園内には、ソメイヨシノ約860本、ヤマザクラ約70本、カンザン約65本など、公園全体で合計1300本の桜があります。
 現在、日本最古のソメイヨシノは明治15年(1882年)に植えられた青森県の弘前公園の桜とされています。そのソメイヨシノは、弘前城の二の丸与力番所と東内門の間にある、旧藩士「菊池楯衛」により植えられたソメイヨシノ1000本のうちの1本だと言われているものです。しかし、開成山の方が早く植えられたと思われ、当初のものが残っていれば、日本最古、長寿日本一は開成山公園のソメイヨシノであると推察されます。
 ソメイヨシノが比較的短命であることは否定しませんが、「ソメイ60年寿命説」は必ずしも正しくはなさそうです。
 弘前城公園のソメイヨシノは手入れで長寿を保っていますが、開成山のソメイヨシノはどのように守られてきたのでしょうか。見るところ、公園内のソメイヨシノの大木の多くは老朽化しており、ひん死の状態のものも少なくありません。しかし存在感は圧倒的です。
 開成山のソメイヨシノが何故このように、通常言われている寿命の倍以上の樹齢を重ねながら花を咲かせ続けられるのか、その理由を知りたいと思うのは私だけではないと思います。そしてこれからも1年でも長く花を咲かせて欲しいものだと思います。
(大槻 憲章)

【参考資料】
開成社百年史
安積開拓の小冊子(郡山市)
HP「今に残る安積開拓・安積疎水」他

 

開成山公園のソメイヨシノ

開成山公園のソメイヨシノ