ある人に滋賀県北部地域に「野神」として祀られる巨木があるという話をしたところ、山形県には「草木塔」というものがあると伺った。
山頭火の句集にも「草木塔」というのがあったのを思い出した。種田山頭火は山口県の出身だから、山形県の草木塔を知っていたかは分からないが、芭蕉と同様に俳諧を作りながら各地を徘徊した人なので山形県の「草木塔」から名付けたのではないかとも思う。
「草木塔」をインターネットで検索してみると多くのサイトがヒットする。
草木塔(そうもくとう)とは、「草木塔」、「草木供養塔」、「草木供養経」、「山川草木悉皆成仏」などの碑文が刻まれている石塔の総称である。国内に160基以上存在すると言われているが、戦前からあるものは山形県の置賜(おきたま)と呼ばれる地域に集中しているとのことである。なぜ、山形県の一地方に「草木塔」なるものが存在するのだろうか。
最も古い草木塔は自然石に「草木供養塔」と刻まれた江戸時代中期(安永九年)に建立されたものだという。ちょうど上杉鷹山の時代である。その草木供養塔は入田沢の塩地平にあり、「安永九子天」と刻まれている。また、口田沢にある碑には「安永九庚子天講中 一佛成道観見法界草木国土悉皆成佛 八月一日 口田沢村」と刻まれている。
この田沢地区は、藩政時代には「御林(おんばやし)」と呼ばれた米沢藩の御料林のあった所で、城や御殿、神社仏閣の用材として、また城下の大火復興の用材として伐り出されてきた。
安永九年四月十七日には、現在の米沢市粡町・銅屋町・立町などで大火があり、その時に、藩主の命令で、この「御林」から急遽、多くの用材が伐採・運搬され、復興にあてられたという。
このような出来事から、人々のために役立つ樹木や草類に感謝し、供養するとともに、植えた樹木の成長と山林資源の豊かさを願う気持ちが、このような供養塔を建立する元となったのではないかと考えられる。
それが、時代を経て、数が増え、エリアも広まるにつれて、単純化されて「草木塔」として確立してきたのではないだろうか。
このような草木塔は、江戸時代以降も主に林業の盛んな地域に建てられ、田沢・簗沢・綱木・梓山など「木流し」が行われた所に多くあるとも指摘されている。
草木塔は最近では自然保護・地球環境といった面から一層注目され、置賜地方に存在している「草木塔」にならって建立する動きが県内外とも盛んになってきている。
平成二年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会(花の万博)」に、飯豊町の「草木塔」が展示され、全国的に注目された。
博覧会の理念「自然と人間との共生」の精神にも通じる「草木塔」は、我が国の精神構造にきわめて適合したものであると思われる。自然に恵まれながら、自然と共に生きてきた、また生きていくべき私たちは、「草木塔の心」を長く伝えて行きたいと思う。
※)参考文献:「広域広報おきたま」平成3年(1991年) No.3(8月15日号)
大槻 憲章