私が高校生になった頃、ラジオの民間放送が始まり、「バッテン・ボオ」のアメリカの歌や「あア・こりャアこりャア」のジャズ民謡と称する日本の歌、それに続いて「死んだはずだヨ お富さん」 歌舞伎の名台詞の歌。もう、私はウンザリしていました。
ある日の夕方、どこのラジオ局だか忘れましたが、「ママ・ジョ・キェロ・ウン・ノビオ」「おっ母ちゃん、あたい、恋人が欲しいの。 まア、大変なおねだりですネ。」 続いてお菓子の宣伝。でした。
何という番組かも忘れましたが、このママ・ジョ・キェロを歌っていたのが、ランコ・フジサワでした。 覚えておいででしょうか。 いや、この名前、御存知ですか?
私は、このママ・ジョ・キェロから何十年、ランコ・フジサワを追い続けてきました。 ランコ・フジサワは藤沢嵐子さんです。 この人の出自などは知りませんが、東京音楽学校(現東京藝術大学)で声楽を学んだ後、昭和25年に早川真平さんと知り合い、タンゴを歌うようになって早川真平さんと結婚したそうです。
この早川真平さんは大阪市旧南区の御出身で、御兄弟に竹細工の人間国宝がおられ、その人の御長男も竹細工の人間国宝になっておられます。 その弟さんの次男坊が私の1年上級生で、毎朝、お手テをつないで同じ小学校(当時は国民学校)に通っていました。 勉強のよくできた人で、慶應義塾大学に入られました。
そのような因縁もあって、私の青春時代は「アルゼンチン・タンゴ以外は聞く耳持たぬ」という状態でした。 昭和29年4月、京都の大学に入り、金さえあればタンゴ喫茶に出入したり、公演があるたびに「早川真平とオルケスタ・ティピカ・東京 歌・藤沢嵐子」の実演(ライブとは言わなかった)に行ったものでした。
その後、就職してお金が入るようになると、レコード屋を廻るのが楽しみでした。 今も7枚の藤沢嵐子のLPレコードを大切にしています。
一番好きな曲名はA La Gran Muňeca(ア・ラ・グラン・ムニエーカ) 大きな人形 別名 素敵な美人 それは私の妻(?)です。 おそまつさま。
澤田 清