「正倉院というのはやはり凄いなぁ」と思う。
 きわめて直情的な表現だが、正倉院展を見てきた素直な感想だ。今年、私が特に見てみたかったのは14年ぶりに公開された「黄熟香」である。別名「蘭奢待」とも呼ばれるこの香木は、わが国で最も有名な香木である。「蘭奢待」の三文字にはそれぞれに正倉院の持ち主である東大寺の3文字が隠されている。誰がどういう意図で名付けたのかは知らないが、謎だ。
 今年の正倉院展の特徴の一つは、香木や香炉など、香りに関する宝物が多く公開されていることです。香は、聖武天皇が帰依した仏教との関わりが深く、天平の皇族・貴族が香りをどのように暮らしの中に取り入れていたかが、香炉などの諸道具を見て想像出来る展示となっている。
 さて「黄熟香」だが、長さ160cm、重さ11.6kgの香木で、足利義政・織田信長・明治天皇によって切り取られたと伝えられる跡が付箋で表示されている。実際に見てみると、それ以外にも切り取った跡があることが分かる。当然、天皇家や東大寺の関係者は香りを嗅いだことだろう。
 実は、香の香りは「嗅ぐ」ものではなく、「聞香」という言葉があるように、「聞く」ものらしい。
 「薫煙芳芬として行宮に満つ」
 明治天皇紀には、明治天皇が「黄熟香」を焚いた時の状況が簡潔かつ的確に表現されていて興味深い。

 「黄熟香」は沈香の一種である。沈香は一口で言えば、ジンチョウゲ科(アキラリア科)の植物の木の幹や根に樹脂が沈着したもので、樹脂が沈着してため比重が高まり、水に沈むことから沈水香、沈香と呼ばれるようです。
 もう少し詳しく言うと、東南アジアに生育するジンチョウゲ科ジンコウ属の樹木で、風雨や病気・害虫などによって木部が傷つけられたると、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積する。これはシャイゴ博士のCODITモデルの「壁」を形成する働きと同一のもだと思う。
 この樹脂が香りのもとになるが、それだけでは上質な香とはならず、枯れた後、沼沢地の泥濘に埋没し、バクテリアによる分解・変成作用を受けて初めて馥郁たる芳香を発することになるという。樹脂の沈着が見られない部分は腐り、樹脂が沈着した部分だけが残る。これを乾燥させたものが沈香で、特殊な自然の条件が重なって初めて形成される非常に希少なものだという。

 良く見ると黄熟香の中央部は空洞になっている。これが立木の時の心材腐朽によるものなのか、後に樹脂蓄積がなくて腐ったか、香木として価値のない部分を削り取ったものか分からない。表面は、水によって練磨されたように角が無く丸くなっている。
川の流木というよりは海を漂流して角が取れた木材のように見えた。しかとは分からないが、木質ははっきりした年輪や木目を持たない材のようだ。

 古来より、淡路島などには香木が漂着したとの記録がある。黄熟香がどのような経緯で正倉院に収められるようになったかはわからないが、もしかしたら南方より海流に乗って、年月をかけてたどり着いたものかもしれない。

 香木としては他に伽羅が有名だが、沈香の中でも極上のものが「伽羅」とされる。自然の不思議な作用により偶然生まれた香木の伽羅は、その高貴な香りと貴重さゆえに、古来より珍重されてきた。
 その伽羅と沈香の香りを、館外のテントのブースで嗅ぎ比べることが出来た。経験のない私の印象では、伽羅のストレートな香りに対して、沈香はさわやかな甘い香りがした。いずれも奈良に相応しい古来の香りだが、個人的な好みはより貴重な伽羅よりも沈香だと思った。
                                            大槻 憲章

 

正倉院展のチラシより

正倉院展のチラシより